弊社のあゆみ
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弊社のあゆみ(3) かたちを変えながら
さて、米谷組は激動の時代をなんとか生き抜き、昭和二十七年(1952年)に米谷建設株式会社として生まれ変わります。
これもまた記録も記憶もありませんが、とにかく時代に合わせて形を変えつつ、
弊社は今日まで新居浜で新居浜とともに生きてきたわけです。
その当時の社長は、忠重の息子で二代目の米谷勝でした。
手先が器用だった忠重からの遺伝なのか、勝は達筆でした。
そんな勝の文字は、新居浜市内の住友病院前の交差点にある地下道の入り口にしっかりと残っています。
二代目が残したものは、もちろんそれだけではありません。
実は弊社のマークをデザインしたのも勝です。
「谷」の字の山になっている部分をひっくり返して「V」にして、
その中に「米」の字が入っているのです。
なお、原案を作ったのは勝の妻スミ子だと言われています。
もともと手書きでデザインされたものなので、昔の制服や封筒に入っていたマークは、
「V」の角度が狭まったり広がったりして一定ではありませんでした。
これをあーでもないこーでもないと丁度いい角度にしたのが勝です。
コンピューターなんてまだありませんでした。
本ホームページに使用しているマークは、勝が手書きで残したデザインの決定稿です。
微妙にマジックで塗ったあとが残っていると思うのですが…分かりますか?
K
(2016.08.08)
弊社のあゆみ(2) 着実に前へ
左官職人だった米谷忠重が、米谷組の旗を挙げたのは昭和二年のことでした。
『新居浜産業経済史』には、
昭和二年頃にできた小企業は、とび職や沖中仕、職工といった永い下積み生活を経た人々が
住友の仕事を請け負うという形で事業を始めたケースが多いと記されており、
米谷組も例にもれず、この流れに沿って成長していきました。
ここから、総合建設業としての弊社のあゆみが始まったのです。
当時のことを知る人、当時の詳細な資料はありませんが、
忠重の左官職人としての腕を現在にも示すものがひとつ残されています。
亀です。
どういういきさつで亀を制作したのか、
なぜ亀なのかは定かではありませんが、
このモルタルでできた亀は弊社社長宅の庭で、静かに歴史の移り変わりを見守ってきました。
もしかすると、どんなときも着実に一歩一歩あゆみを進めよとの
初代からのアドバイスなのかもしれません。
K
(2016.06.23)
弊社のあゆみ(1) 高松から新居浜へ
昭和二年(1927年)の創業以来、
弊社は89年間この新居浜で、新居浜とともに成長してまいりました。
創業当時のことを覚えている人物はもうおりませんが、
ここで少し歴史を振り返ってみようと思います。
米谷建設の前身である米谷組の創業者、米谷忠重は、香川県高松市出身でした。
彼は尋常小学校を卒業してまもなく、新居浜の金子村へとやってきます。
まだ、少年でした。
なぜ少年が、わざわざ高松から新居浜へやってきたのでしょうか。
忠重には、すでに金子村で左官職人に弟子入りしている親戚がいました。
これは推測でしかありませんが、
その親戚が、忠重もこちらへ来て弟子入りするよう誘ったのだろうと思います。
当時、別子銅山経営の中心は惣開へと移り、
金子村は新居浜村に次いで出稼ぎの労働者が多い村でした。
工場の操業音、鉄道、働く人の声。
別子銅山経営では煙害や労働争議なども起こり、
良くも悪くも人々の熱気に満ちた時代だったでしょう。
その金子村で一旗あげてやろう!という野心が、少年の心にもあったのかもしれません。
ともかく、この少年の一歩が、
米谷建設のはじめの一歩でした。
その目は今日まで続く未来を見据えていたのでしょうか。
今となっては知る由もありません。
K
(2016.06.15)